父の日に寄せて -おやじの話ー ⑨

前回までの話

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―大和乗艦―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せてーおやじの話ー /

―大和艦内での生活―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―レイテ沖海戦―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―大和最後の出航― https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―沈みゆく大和―前編https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―沈みゆく大和―後編https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―生還―前編https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

 

 

―生還― 後編

 

 

駆逐艦は、先に救助するべく士官を探していたのか、全体を見渡すように漂流者の位置を確認後、その中心あたりに停まった。

 

だが私達のいるところからは随分離れている。

 

どちらの艦に向かうべきか、また艦首か艦尾のどちらに向かうべきか、残った気力と体力を考え、生きるための選択をしなければならなかった。

 

私は「皆、頑張ろう!このままでは助からんぞ!」と声を出しながら、浮かんでいた破片を拾って櫂にし、必死に筏を漕いだ。

 

ボートで海面に浮かぶ人達を救助しているのが見えるが、なかなかそちらに近付けなかった。

 

艦からは「泳いで艦まで来い!」と叫ぶ声が聞こえた。

 

「よし、行こう!」と私は真っ先に筏から離れて泳ぎ始めた。

 

ようやく駆逐艦「雪風」の左舷後部にたどり着くと、甲板から三人の兵がロープを投げ下ろしてくれた。

 

そのロープをつかんだ瞬間に「あ~助かった。」と安堵し、途端に全身から力が抜けてしまった。

早く上ろうと気ばかり焦るが力が出ない。

これではいかんと気を取り直し、必死でロープを上り始めた。

 

海面よりやっと1メートルほど登ったところで、後から泳ぎ着いた人達がロープに殺到した。

 

艦からは「ひとりずつだ!」と大声で指示されるが皆必死でロープを握った手を離そうとしない。

 

ついに艦上の兵は重さに耐え切れずにロープを離してしまった。

 

 

私は再び海中へと投げ出されてしまった。

 

 

ついさっきまでは死んでも良いと思っていたが、いざ助かると分かると、どうしても生きたいと思った。

 

だがこのままでは到底駄目だと思い、綱梯子を探した。

 

網梯子は前方に見つかった。

そちらに回るが、こちらもまた五、六人が我先にと争っている。

 

皆気ばかりが焦って必死にもがき、先へは進まない。

 

私は前の人を押し上げてやり、自分もすぐ後に続いた。

 

海面より甲板までは四、五メートルほどだが、心身ともに疲れ切っているうえに、軍服の中に海水がいっぱい溜まって重く、また重油で手が滑ってなかなか上がれない。

 

上から「もう一息、もう一息」と励ましてくれるが、身体が言う事を聞かない。

 

一段一段が本当に必死の思いであった。

 

甲板上では、二人の兵士に両足をしっかり支えられた一人の兵士が腹這いになり、舷側に身を投げ出して両手をいっぱいに伸ばし、私の襟を掴んで引き上げてくれた。

 

 

甲板に這い上がった私は「ああこれで助かったんだ。本当に助かったんだ」と安堵し、そのまま倒れこんでしまった。

 

 

 

「大丈夫か?」の声に立ち上がった私の顔は重油で真っ黒であった。

 

 

後甲板で軍服を脱ぎ、貴重品のみを残して後は全て海に投げ捨てた。

 

貴重品と言っても重油に汚れた「母と共に写った幼い頃の写真」、「出征時に買ってもらった腕時計」、「千人針の手拭い」だけだ。

 

 

駆逐艦の兵隊に、身体に付いた重油を拭いてもらっている時、右舷約八〇メートル程先の海面で、一人の兵士が「助けてくれ~」と浮き沈みしながら叫んでいるのが見えた。

 

負傷しているのか泳げない様子で、潮に流されている。

助けてやりたいと思うが、どうすることもできない。

 

 

そのうち気力も体力も尽きてあきらめたのか「天皇陛下万歳」と唱えつつ暗い海へと沈んでいった。

 

 

毛布一枚と晒の褌一本をもらって震えながら艦内の居住区へと降りた。

 

そこで皆毛布にくるまりガタガタと震えていた。

負傷して苦しいのか唸っている者も少なくない。

 

出撃時三千三百三十二名のうち、奇跡的に生き残った者はわずか二百七十六名、内、無傷だったのは七十名足らずであった。

 

 

皆大和とともに海の藻屑と消えていったのだ。

 

 

 

駆逐艦の兵が、酒と赤玉ポートワインを持って「温まるから飲め」と勧めるが、飲む余裕すらなかった。

海水や重油を飲んだせいで喉がひりひりと痛かった。

とにかく、ただじっと静かに身体を休めたいと思うだけで、口を開くのも億劫だった。

 

それでも執拗に勧めてくるので、仕方なく一くち口にしたら、「うまい!」これまで味わったことがないほどうまかった。

 

湯飲み茶わんのワインを一気に飲み干した。私はこの時のワインの甘い味を今も鮮明に覚えている。

 

 

少し経つと身体がポカポカと暖かくなり始め、それとともに少しずつ元気も出てきた。

これは是非皆に勧めなければと、なかば強制的に注いで回った。

最初、嫌がっていた者たちにも結局は喜ばれた。

 

 

駆逐艦に救助されてからは、とにかくこのまま無事に本国に帰りたいという気持ちだった。

 

戦死しても構わないと思っていたことがまるで嘘のように、ただただ生きて帰りたかった。

 

 

内地に帰港」との艦内通達があった時には本当に嬉しく、

途中で、「敵潜水艦から魚雷発射」との通知があった時には、毛布を頭からかぶって、どうか当たりませんようにと必死で祈った。

 

翌日、衣服をもらい、内地佐世保港に入港した。

 

 

地面に一歩足を踏み出した時、私は心の中で「万歳!」と叫んだ。

 

 

再び生きて内地の土を踏むことが出来た時の嬉しかったこと。

皆で拍手して喜びを分かち合った。

 

それから、重症者は佐世保の軍病院へ、それ以外の者は、重油や海水を飲んでいることから、伝染病予防や経過観察の為に佐世保から少し離れた小さな島の療養所へと送られた。

 

島では外部の人達との接触を禁じられた。

 

おそらく大和の運命を隠すためだったのだろう。

 

しかし毎日のように慰問袋が届けられ、皆で花見をしたり、運動会のようなことをしたりして、私達は二週間余りをのんびりと過ごした。

 

 

 

満開の桜のもとで皆戦争のことなど口にせず、毎日笑っていた。

 

 

四月二十日に軍用機で広島県呉に戻り、五月に大竹海兵団に帰団後、海軍二等兵曹に昇級した。

 

 

七月に呉軍港が大規模な空襲を受けるが、私はこの時、兵舎の代わりに宿泊していたお寺にあった防空壕にいて助かった。

 

翌日、町まで降りてみると、辺り一面焼け野原で、あちこちに性別も分からなくなるほど黒こげになった人や家畜が転がっていた。

 

 

ここもまた地獄のようであった。

 

 

→終戦へとつづく

 

 

M.